一平の「釣りは残酷か?」雑感

1.釣り・魚の殺傷について
 
 三年ほど前から一平は、女房殿に釣った魚を料理してもらうには、手間もかかるし、内臓は気持ち悪いし、臭いもするし、台所も汚れるので少々気が引けていました。
最近は、忙しい主婦のため、店頭には魚を切り身で売っていたり、料理済みの魚が並んでいることも多いようです。そこで、女房殿の負担を軽くするため、自分の釣りを続けるため、釣ったことを喜んでもらうために「持ち帰って魚をさばくまでは一平の担当とする」ことを決心しました。
三木市は金物の町です。もちろん我が家にも出刃包丁と刺身包丁はありましたが、自分の腕は棚に上げて、さらによく切れるものを探し求めて購入しました。

写真ー1 淡路島・野島より姫路方面を望む(2020年10月13日)

 しかし、実際に自分が魚をさばく過程で魚に包丁を入れ、切り刻んだ時、何となく気持ち悪く、可哀想というか、罪悪感にとらわれました。こんな気持ちは釣りを始めて初めてでした。
魚をさばく動画をずっと見ていたら、何となく気分が悪くなり、数日間は寝つきも悪かったのを記憶しています。

私たちは、普段から魚や牛や豚、鶏の肉を食べていても自分でその動物を捕獲し殺すことはしません。従って、食料のために生き物を殺し、生き物を傷つけ血を流すことは他人事なのです。現代社会に暮らす私たちが食べる魚や肉は、専門の食肉処理業者や漁業関係者や調理師が処理したものを手に入れています。自分は手を下していませんが、自分が食べるために他の誰かがその代わりをしているのです。

一平は、釣った魚を自分でさばき、すべての処理をするようになって、「人間もどんな動物も、他を犠牲にして生きている」ことを改めて実感しました。
アフリカのライオンも豹も獲物がなければ生きていけません。獲物の残り物をハイエナやハゲタカがつつきます。その行為だけを見れば、ある意味「残酷」な現実です。自分が釣った魚を〆て、血抜きをして家に持ち帰ってさばき、調理し、食べることはその残酷な行為をすることなのです。
これからも釣りをし、楽しむとことと「この残酷な行為」をすることを、自分として受け入れることができるのだろうかと初めて自問自答しました。

戦前の日本や敗戦後しばらくの間、社会が貧しかった時には「釣りは食べるために必要な行為」として受け入れられてきました。それ以上に何万年も前から、釣りは人々の生きるための手段だったのです。
フライフィッシングで有名なイギリスでは、1700年代後半以降、福音主義者たちによる人道主義的な動物愛護論が展開され、アニマルスポーツや狩猟ばかりでなく釣りも残酷だとする論者もいたそうです。しかし、1824年に「動物愛護協会」が設立され、「牛馬愛護法」や「闘鶏禁止法」などが成立した時、釣りは禁止対象とはなりませんでした。魚類は哺乳類と比べて、人間から遠い存在だということもあったと思われます。

結局、どの動物を食べるか、どれを食べるために殺してもかまわないかと考えるかは、その社会の歴史、文化的背景によって決まるのだろうと思われます。
例えば、ユダヤ教では豚、ウサギ、鯨、ナマズ、貝類、甲殻類、昆虫類を食べることは禁止されており、イスラム教では豚、ヒンズー教では牛などです。

日本では、675年に天武天皇が最初の「肉食禁止令」を出して以来、約1200年にわたって肉食禁止でした。鎌倉時代には、すでに動物の殺生を「悪」、肉食を「穢(けが)れ」とすることは、全国津々浦々まで浸透していたようです。もちろんその後もたびたび肉食禁止令は出され、江戸時代も例外ではありません。その結果、肉を食べていた古墳時代の平均男性の身長は163㎝なのに、江戸時代には155㎝という調査結果もあるようです。

一平は、現代に生まれてつくづくよかったな~と思います、美味しい肉が食べられない人生なんて考えられませんね~(笑)

日本での肉食禁止は主として仏教の影響によるものです。日本人が魚をよく食べるのには、肉食禁止の影響もありますが、もちろん食糧確保が容易な海に囲まれたという環境と風土が大きな要因であると思われます。

しかし肉が食べられなかった分、世界で日本人ほど魚を食べる民族はいないといわれるまでになりました。量だけでなくあらゆる魚介類を工夫して食べます。

扱いにくい食材を長い年月をかけて、知恵と工夫を凝らして食べられるように工夫してきた祖先の知恵により、いろいろな魚をさばく方法も工夫され、洗練され、江戸のにぎり寿司やいろいろな和食が生まれたのです。一平も時々おこなう鯛の三枚おろし、カレイの五枚おろし、ウマズラハギの皮剥ぎ、よく考えてみるとこれらもすべて先人の知恵のお陰なのでしょうね。
さて、このようにみてくると食べるための釣りという行為は何ら非難されることではなさそうです。

しかし、現代の釣りは生活手段なのではありません。
現在、日本で一般的な釣りは、釣ることを楽しむのが主目的です。同時に食べることも楽しまれてはいますが・・・また、ゲームフィッシングやブラックバス釣りなどのように食べるのが目的ではなくて、釣るのが目的の釣りは許されるのかという点については、どう考えたらいいのでしょうか。

釣りをレジャーとして楽しんでいる人たちを非難する人も結構いるのです。食べるためでないのになぜ、魚を傷つけるのかと・・・魚に針を引っかけて、引きずって釣り上げるといった行為は残酷だし、その残虐性の高い行為自体を愉しんでいることが、受け入れられないというものです。

食べるために釣りをする人を、非難する人はほとんどいないと思われます。
それを非難することは、自分もその恩恵にあずかりながら相手を非難することになるからです。もっと言えば、何らかの生命を口にしているだけで、それはもう同じ土俵上にいるからです。私は「魚を食べないから」は理由になりません。食べているものはすべて元は、生命があるものだからです。

ではなぜ、人は釣りをするのかということになります。
人それぞれに、いろいろ理由はあると思いますが、一平は、楽しいから釣りをします。
釣りに行く前の仕掛け作りの段階からあれこれと考えをめぐらしてワクワクし、ウキがスポット消えた瞬間には興奮し、魚とのやり取りには集中し、釣った魚を眺めては満足し、持ち帰っておいしくいただき魚に感謝し、幸せな気持ちになるからです。

さらに釣り人は、海や川、そこを取り巻くすべての自然の美しさ、風の心地よさ、非日常的な陶酔感などを感じ、深く充実感を得ているのではないかと思います。

「魚を釣って、傷つけて放す行為は、命をもてあそんでいるようだ」に対しては、「釣りとは、そういう遊びですよ」と答えるしかありません。
トンボやセミの収集、魚釣り、金魚すくい、どれも対象物を傷つけずに済む行為ではありません。クジラを捕獲することが、可哀想だと言うなら「クジラに一日に何万匹と食べられている南極のアミエビ」のことも考えなければなりません。

現代の人間社会において、「命の大切さ」を考えない人はほとんどいないと思います。
教育や宗教により、人々が共通の認識や倫理観を持つことは社会にとって重要なことだと思います。しかし、どんな教育や宗教でも、人によって時代によって考え方も違い、突き詰めて考えると結構あいまいな根拠の上に成り立っているのではないかと、一平はこの年になってしみじみと感じています。

原則論はそうだが、実際はそうではないことが現実には山ほどあります。
仏教の言う「小さな虫一匹にも命があり殺生をするな」という観点からすれば、蟻一匹・蚊一匹殺してはならないことになります。また、殺生をしないことを忠実に実行するなら魚や肉を一切食べずに、ベジタリアンで一生過ごすことになります。世の中にはそういう一途な人もいていいと思います。
しかし、そうだからと言って他人にそれを強要してはいけないと一平は思っています。

釣りの「魚を罠にかけて仕留める」という行為は、本来人間に備わった「狩の本能」を刺激し、楽しんでいるわけで、仏教の教えからすれば外れているかもしれませんが、生き物としては、自然で純粋な楽しみ方だから何も恥じることはなく、楽しんでいいのではないかと思います。
但し、釣り糸や釣り針、ビニール袋などを投棄し、環境を破壊し、漁業者や近隣住民に多大の迷惑をかけたり、進入禁止の場所に不法侵入したり、密放流することはマナー違反であり、「悪」です。
私たち釣り人は、このような釣り人が現実に存在し、「釣り人」の評判を貶めていることを肝に銘じて行動する必要があると思っています。

異なった趣味、嗜好、思想、宗教を持つ人たちが、異なった考えを認め、互いに尊重しあうことが大切な時代です。
特に趣味に関しては、当事者でない人から見れば本当に「お金にもならない、時間つぶし」をやっているように思われることも多いと思います。しかし、それぞれが自分の考えで、人生を楽しんで生きていると考えて、お互いが認め合い、尊重して生きていきたいものです。

                            2020年12月6日

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